小豆島で盛んな産業をご紹介します。
小豆島は古代から塩が生産されていたが、江戸後期には生産過剰に悩まされ、しだいに衰えをみせてきた。 塩を大阪などへ運ぶ船の船頭たちによって、醤油醸造技術が学びとられ、塩に代わる産業として、醤油が企業化した。温暖な気候が酵母菌の培養に適しており、主原料の塩が地元に豊富なうえ、大豆・小麦などの原料も、すでに発達していた海運業者の手で容易に運送できるなど、醤油産業が産声をあげる条件がそろっていた。 耕地が狭くて、農作物だけでは暮らしていけないという事情と、海上交通が盛んだったことによって、醤油産業が発達したといえる。
佃煮は、小豆島で戦後に大きく成長した産業である。伝統ある醤油業界は、太平洋戦争で原料不足が深刻となり前途は暗かった。“醤油業だけに頼っていては郷土の経済発展は望めない”と、醤油を素材に使う事業として、佃煮の生産が1945年9月26日から、醤油業者の手で始められた。材料は、当時の小豆島で主要な農作物であった、さつまいもの葉柄で、従業員はわずか5人であった。 翌1946年から、昆布、のりなどの原料も入手でき、業者数も増加。良質の醤油を使って生産されるので、小豆島佃煮の声価は高まっていった。
小豆島手延べ素麺の創業は、1598年に池田村の村民がお伊勢参りの道中に大和国・三輪に立ち寄り、素麺づくりの技術を持ち帰り伝えたとされている。 その頃小豆島には、良質な小麦・塩・「湯船の水」に代表される湧水・胡麻の栽培などがあり、冬には空気の澄んだ瀬戸内の寒風が吹き寄せ、雨が少ないために天日干しには最適など、良質な素麺づくりに必要な条件が揃っていた土地柄であったことにより、次第に全島に波及していった。また、小豆島素麺の特徴として、線状から渦状に巻く工程で、産地としても珍しい純正ゴマ油を使用することがあげられる。
1858年、島の特産品であった素麺にゴマ油が使用されたことから、小豆島のゴマ油づくりが始まった。古くから長寿食として親しまれてきたゴマは、大変栄養バランスが優れており、栄養成分を大別すると脂質が50%以上、たんぱく質が約20%、その他良質な栄養素が豊富に含まれている。
石の歴史は古く、「豊島石」と呼ばれる細工に適した角れき凝灰岩が小豆島の西側に浮かぶ豊島で採掘される。良質で石質は軟らかで色黒く、水には弱いが火に強い性質を持ち加工しやすい。鎌倉時代から採掘加工してきた。近世以降は、小豆島北部海岸一帯から産出している良質の花崗岩が主流となった。 歴史上に名高いものでは、1583年から始まった大坂城築城用石を集めるため島内の数ヶ所に豊臣秀吉の重臣達を石奉行として、それぞれ屯宿させ石丁場には普請小屋を建て、採石にあたり、切り出された石は船や筏に積みこまれ大阪に運ばれたと言われている。その後、徳川時代にも大坂城修築や江戸城修築に小豆島の石が大量に切り出され、この大坂城採石によって小豆島の採石技術は急速に向上した。
オリーブが香川県に最初に導入されたのは、1908年、農商務省がイワシ、マグロ等の油漬け加工に必要なオリーブ油の国内自給を図るため、香川、三重、鹿児島の3県に依頼して試作したのが始まりとされる。香川県では、小豆島西村にオリーブ試験地を創設し、119aに519本の苗木が植栽された。 3県のうち、小豆島のみが見事栽培に成功し、1910年には7㎏の果実を収穫、翌年頃から搾油が始まり、宮内庁への御用達や産業博覧会で入賞するなど、広くオリーブが知られるようになった。初夏にオリーブの白い小さい花が咲き、夏の太陽を浴びて緑色の実がふくらみ、9月下旬からグリーンオリーブの収穫が始まる。10月下旬から11月にかけて実が紅紫色になり、紫色になり、黒紫色に変わる頃、油用オリーブの収穫が始まる。 収穫したオリーブは、食用のオリーブの実の新漬け、エキストラバージンオリーブオイル、化粧用のオリーブオイルやハンドクリームなどに広く加工されている。