小豆島の歴史をご紹介します。
小豆島
の
歴史
小豆島という地名がいつから使われたか明らかでないが、文字として初めて使われたのは日本の最初の書物「古事記」に伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の2神が、日本の大八州(おおやしま)につづいて10番目に「小豆島(あづきじま)」を国生みし、別名を「大野手比売(おおぬでひめ)」というとあり、また日本書紀にも、応神天皇は、皇妃兄媛(えひめ)が吉備の国へ里帰りするに際し難波から出帆する舟を高台から見送りながら瀬戸の島々を望み見て、「阿波旋辞摩(あわじしま)・弥二(いやふた)並び阿豆枳辞摩(あずきじま)・・・」とよんでいる。その後、「小豆島(しょうどしま)」と呼ぶようになったのは、鎌倉中期頃といわれる。
鎌倉幕府が亡んだ後の南北朝時代、佐々木三郎左衛門信胤は、1339年に小豆島に拠り本拠を星ヶ城においた。信胤はもともと北朝の細川定禅に応じて京都攻めに加わった勇将であったが、尊氏の権臣高土佐守師秋の愛人お才の局を奪って南朝に転じた。信胤が小豆島へ拠ったのは彼の出身地が対岸の児島であり、彼はその地方の海賊の名家であったことと修験道で深い関係のある南朝方の熊野水軍と提携し、瀬戸内海東部の海運の要所(海上権)を抑えて西国から上京への道を断つことにあった。しかし信胤が拠島して8年後の1347年、北軍の淡路守師氏は阿波淡路・讃岐・備前4カ国の大軍をもって来攻し、まる1カ月間の合戦の末降伏した。
小豆島へキリスト教が渡来したのは1586年である。1585年、豊臣秀吉はキリシタン大名の小西行長に小豆島を領地として与え、彼は翌年大阪の神学校にいたグレゴリス・セスペデスを島に呼び寄せて布教させた。この時小豆島には1人のキリシタンもいなかったが、1カ月たたぬうちに1400人以上の信者ができ、高さ15m以上の十字架を建て、神仏は残らず破壊し、行長の自費で聖堂を建てたといわれる。
しかし1587年、秀吉の禁教令により宣教師らは日本からの退去令が出され、1630年頃までにはほとんど根絶するまでになった。しかしこの弾圧にも関わらず多少の隠れキリシタンは存在したものと思われる。こうした厳しい弾圧に対抗して、1637年に九州島原では宗徒が一揆を起した。これが島原の乱であり、多数の農民が討死し、島原半島南部は荒廃してしまった。そこで幕府は農民移住政策をとり、天領である小豆島も含め、全国から農民を移住させて復興をはかった。これが島原移住である。
1583年、豊臣秀吉により築かれた大坂城。1615年、夏の陣において豊臣家は徳川家に敗れ、1620年、徳川秀忠によって秀吉が築いた石垣なども埋められた上、新たな堀、石垣、天守を築いた。 徳川家による大坂城修築においては、1620年から始まり三期の工期に分けて進められ、1629年に完成した。その間、福岡藩 黒田筑前守[松平右衛門佐](岩谷地区、チブリ島)、伊勢津藩 藤堂和泉守(福田地区)、柳河藩 田中筑後守(石場地区)、小倉藩・熊本藩 細川越中守(小海地区)、熊本藩 加藤肥後守(小瀬地区、千軒地区)、岡藩 中川内膳正(女風呂地区)、松江藩 堀尾山城守(大部地区)、佐賀藩 鍋島信濃守(豊島)による石丁場より大坂城へ石船にて運ばれることとなった。また、これらを裏付ける古文書が島内外に残されており、さらには石丁場に残された刻印と現在の大阪城の石垣に残る刻印とも符号している。
その昔、弘法大師(空海)が生国讃岐と京都を往来の途中、小豆島に立ち寄られ、修行された険阻な洞窟、浜辺の庵など多くの御霊跡を残したと言い伝えられる。 また、小豆島は古くから山岳崇拝の霊地が島内のあちこちにあって、中世には修験者らの修行する姿がみられた。札所のなかには、鎌倉時代にあげたつり鐘の残るところもあり、それぞれの寺院の歴史はかなり古い。 小豆郡誌などによると、小豆島八十八ヶ所霊場開創は、1686年で、四国八十八ヶ所の霊場になぞらえて創設したという。当時、寺院だけでは数が足らなかったため、新たに堂庵を建立して現在の霊場を定めた。小豆島八十八ヶ所霊場は、行程が四国霊場の約10分の1の手軽さであることもあり、毎年多くの人が訪れる。島の人々は、お遍路さんをお茶やお菓子、甘酒などでお接待して迎えた。この“おもてなし”の風習は、今も小豆島に残る。
年中行事として、虫送り・川めし・秋まつり・大師市(春・霜月)などがある。
また、郷土芸能として、農村歌舞伎(肥土山・中山)・安田おどり・ヤッシッシ・石節などがある。